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辻出紀子は、一種独特の存在感をもっている。ゼミ説明会の後、あの妙に人懐こいにっこり顔で話しかけてきた紀子は、一風変わった口調の印象的な女性だった。成熟した女性のしっとりとした落ち着きとは違う、しかし、どこか「ただいま醸成中」といった感じの特有の香りを漂わせた、そんな「未成熟の魅力」を湛えていた。色白の肌に八の字の眉毛と窄(すぼ)んだ唇を配した顔をちょっと傾げて、紀子はいつもこちらの表情をのぞき込むような眼差しで話した。同級のゼミ生たちとわが家を訪れた紀子は、妻の手料理を楽しみながら、わいわいと団欒に興じた。心許してくつろいでいたのだろう、一度は傘を、一度は上着を忘れて帰った。だが、そんな何処となくおっちょこちょいの振る舞いが、妻にも私にも好もしく感じられたのは、紀子の人徳というものだろうか。
紀子は、時々、ひょいと旅に出た。ちょっとインドに行ってきました――そんな風にこともなげに事後報告したように想う。外見はそんなに逞しさを印象づける女性ではないが、身構えずに海外での一人旅を楽しむ風情の紀子には、どこかに飄々とした放浪者の貫禄さえ漂っていた。頼りなげに見えながら、それなりの芯の強さと危機管理能力を備えたコスモポリタンだったに相違ない。異国の風物に心ときめかせながら撮りためた写真は、いつか解説つきで見せてくれる日もあるだろう――そう思いながら果たせずにいたのだが、今回、こんな形で写真展をもつことになった。
そのうちひょいと現れそうな気分をそのままに、今日も忌まわしさを忘れようとしている自分がいる。
旅の夜の白木蓮に降る雨にしばし浮かびぬ君が面影杏子
【プロフィール】
(安斎育郎:あんざい・いくろう)1940年、東京・下町に9人兄弟の末っ子として生まれる。東京大学工学部原子力工学科卒。工学博士。88年、立命館大学国際関係学部教授。95年、立命館大学国際平和ミュージアム館長に就任。主な著書に「人はなぜ騙されるのか」(朝日新聞社)、「科学技術と人間のかかわり」(大阪大学出版会、共著)など。訳書に「核戦争と放射線」(J・Rotblat著、東大出版会)。趣味は、マジック、文人画、和歌、俳句。俳号は杏子(きょうし)。95〜97年、担当する法学部・国際関係学部合同ゼミに辻出紀子が所属。 |
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